頼朝との悲恋の末に命を断った八重姫と、侍女達の慰霊碑
面積は5,500平方メートルで、小鳥や昆虫等の小動物生育環境をそこねることなく、現況地形を配慮し、自然との共生が図られるとともに景観的にも緑の豊かさが体験できるよう、平成6年度に町事業の一つとしてきれいに整備され「女塚史跡公園」として生まれ変わりました。
慰霊碑はこれより右側にあり、古くから女塚と呼ばれ、毎年4月に田中山女塚史跡保存会が中心となって供養祭を行っています。
施設名:女塚史跡公園(おんなづかしせきこうえん) 住 所:伊豆の国市浮橋1600-75 T E L : F A X : E-mail: H P : |
アクセス・パーキング
アクセス:伊豆箱根鉄道田京駅下車 タクシーで約15分
国道136号三福ICを伊東方面へ向かい、主要地方道伊東・大仁線、下畑交差点を左折。
市道沿い約10分
駐車場・トイレあり
料金
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営業時間
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定休日
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女塚の碑由来概説
平治の乱にて平家に敗れた源頼朝は捕らわれ、十四歳で伊豆蛭ケ小島に配流となりました。頼朝二十六歳の頃、頼朝の監視役である伊東祐親は庄内に小館を構えて頼朝を住まわせ、「北の小御所」と呼ばれました。
治承四年二月頃、京の大番役を終え帰館した祐親は、頼朝と四女八重姫との間に三歳になった千鶴丸がいることを知ります。激怒した祐親は頼朝を北条時政の館に走らせ、八重姫を一室に閉じこめ、千鶴丸は轟ケ淵に沈めたと伝えます。しかし平家の処刑の残酷さを知っていた祐親は密かに千鶴丸を甲斐源氏にのがし、後に彼は成人して島津の始祖忠久となったと言います。(伊東まで氏著「八重姫千鶴丸考」)
頼朝のことが忘れられない八重姫は七月十六日早朝、館をぬけ、六人の侍女と共に北条の館へ急ぎました。伊豆の険しい山々を超え、頼朝のいる北条の館へ着くころには疲れ切っていましたが、彼女を待っていたのは頼朝と北条政子が結ばれているという残酷な事実でした。それを知った八重姫は驚きと悲しみに暮れ、伊東に戻ることもできず、ついに真珠ケ淵(現在の古川)の激流に身を沈めてしまいました。
侍女達は姫の遺髪を胸に月光のもと、大仁田中山の松の根方で自害したと言います。彼女たちを哀れに思った里人たちは碑を建て供養し「女塚」と呼びました。約八百年前のことです。
先年伊東まで氏は現地を調査し供養塔を建立、賛同した大仁田中山及び近郷の人々により昭和四十九年二月「女塚」の碑がここに再建されました。
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