真珠院

頼朝との悲恋 八重姫の寺
中世に始まる曹洞禅林としての真珠院は、歴代の住僧たちによって、近隣の寺を末寺として取り込み壮大な寺院 に発展しました。
山門を入ってすぐ右側には八重姫(静姫)の供養堂があります。伝承によれば、頼朝のあとを慕って伊東から山を越え北条館を訪れた八重姫 は、頼朝の心変わりを知り、この寺の前にある真珠ケ渕に身を投じて果てたといいます。堂の前には「せめて梯子があれば姫を助けられたものを」という里人の 思いから、今も小さな梯子が奉納されています。
境内には1302(正安4)年銘の定仙大和尚塔、1335(建武2)年銘の宝篋院塔と五輪塔、1363(貞治 2)年銘の阿弥陀如来磨崖仏(いずれも町指定文化財)が残されています。
 

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悲劇のヒロイン・八重姫について

平治の乱にて平家に敗れた源頼朝は捕らわれ、十四歳で伊豆蛭ケ小島に配流となりました。頼朝二十六歳の頃、頼朝の監視役である伊東祐親は庄内に小館を構えて頼朝を住まわせ、「北の小御所」と呼ばれました。

治承四年(1180)二月頃、京の大番役を終え帰館した祐親は、頼朝と四女八重姫との間に三歳になった千鶴丸がいることを知ります。激怒した祐親は頼朝を北条時政の館に走らせ、八重姫を一室に閉じこめ、千鶴丸は轟ケ淵に沈めたと伝えます。しかし平家の処刑の残酷さを知っていた祐親は密かに千鶴丸を甲斐源氏にのがし、後に彼は成人して島津の始祖忠久となったと言います。(伊東まで氏著「八重姫千鶴丸考」)

頼朝のことが忘れられない八重姫は七月十六日早朝、伊東の館を脱出し、六人の侍女と共に北条の館へ急ぎました。伊豆の険しい山々を超え、頼朝のいる北条の館へ着くころには疲れ切っていましたが、彼女を待っていたのは頼朝と北条政子が結ばれているという残酷な事実でした。それを知った八重姫は驚きと悲しみに暮れ、伊東に戻ることもできず、ついに真珠ケ淵(現在の古川。真珠院の正面にあたります。)の激流に身を沈めてしまいました。

侍女達は姫の遺髪を胸に月光のもと、大仁・田中山の松の根方で自害したと言います。真珠院の境内には八重姫の供養塔があります。また、彼女たちを哀れに思った里人たちは碑を建て供養し「女塚」と呼びました。約八百年前のことです。

先年伊東まで氏は現地を調査し供養塔を建立、賛同した大仁・田中山及び近郷の人々により昭和四十九年二月「女塚」の碑が再建されました。女塚の周辺は「女塚史跡公園」として整備されています。


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