その他の韮山史跡

七つ石

 毘沙門堂への道すがら、両側には多くの梵字や仏像が刻まれた巨石が点在しています。

下から順に両界曼陀羅種子、阿弥陀三尊種子、石地蔵(町指定文化財)、蛇石、夫婦石、こだま石、弘法石(町指定文化財)、硯石、冠石などがあるが、毘沙門堂が元は真言密教の道場であったために、このような磨崖仏群が造られたものと考えられています。

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韮山城址

後北条氏の祖・伊勢新九郎盛時(のちの北条早雲)が1493(明応2)年、堀越御所の足利茶々丸を討ち、伊豆国支配の拠点としたのが韮山城です。

やがて後北条氏は小田原に拠点を移し、5代・約1世紀にわたり関東を支配するが、早雲自身は終生この城を離れることなく、1516(永正16)年、韮山城内で88歳の生涯を閉じました。(法名は早雲庵天獄宗瑞)

城跡は北側から三之丸・権現曲輪・二之丸・本丸と、順次高まりつつ一直線に並ぶ連郭式と呼ばれる構造であり、周囲から畝堀・障子堀の遺構が検出されるなど、随所に北条式築城の特色が見られます。

1590(天正18)年3月、豊臣秀吉軍の攻撃を受けたが容易に落城せず、100日近い籠城戦を経て6月に開城しました。

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毘沙門堂(平安時代の僧・文覚上人配流地)

国清寺の鎮守で毘沙門天(多聞天)を祀るお堂。かつてこの地には安養浄土院(奈古谷寺)があったが、のちに荒廃していたものを頼朝が文覚に命じて授福寺として再興しました。

この寺も今はないが、当初、毘沙門堂は授福寺の鎮守であったといいます。山中には文覚が修業したという不動の滝、境内には文覚の護摩石(硯石・鏡石)と伝わる巨石があり、仁王門の金剛力士像は鎌倉初期の作で県の指定文化財です。

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平石古墳

古墳時代の終末期(約1300年前)に築造された墳墓です。大正5年(1916年)に、山道改修工事の際、偶然発見されたといわれています。

また、昭和47年(1972年)には発掘調査が行われています。その結果、直径14m、高さ約3mの円墳であり、横穴式石室を内部主体とし、「変形家形石棺」を伴ったものであることが分かりました。

家形石棺は、静岡市の賤機山古墳・丸山古墳、長泉町の新屋後1号墳・山ノ神古墳・下土狩1~3号墳などから発見されていますが、北伊豆及び中伊豆地域ではこの平石古墳が唯一のものです。

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北条氏館跡

国指定史跡。北条氏は恒武平氏の流れを汲み、この地(北条)に移ってきたのは北条時政の祖父(時方)の頃と推定されます。時政の父(時家)が初めて北条氏を名乗り、伊豆北条を本貫の地としました。

時政は娘政子が源頼朝と結ばれたことを機に、一族の命運をかけて頼朝の旗挙げに加担し、鎌倉幕府の創立からその運営にいたるまで重要な役割を果たしました。

鎌倉幕府ナンバー2の地位である執権を世襲するようになって、拠点は鎌倉に移ったが、その間も本貫の地を忘れることはなく、北条館は維持されていたと思われます。

発掘調査の結果、建物の柱穴や中国産の陶磁器片が大量に出土し、その量は他の遺跡に例を見ません。

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本立寺

1261(弘長元)年、伊東に配流された日蓮と出会った江川家16代英親は、日蓮の宗義に感銘を受け、深く帰依して在家のまま弟子となった(優 婆塞日久)。

以来、江川家は真言宗から日蓮宗へと改宗し今日にいたっています。1506(永正3)年、24代英盛は邸内にあった大乗庵を移築し本立寺を創建しました。

本堂の裏手は江川家累代の墓所となっています。
境内には36代英龍の片腕として活躍した柏木忠俊など家臣団の墓地、刀工胤長の墓、徳利の形をした伝九郎の墓、1332(元徳4)年銘の旧鎌倉東慶寺の梵鐘(県指定文化財)などがあります。

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守山八幡宮

氏の守護神・八幡神を祀る社で、1180(治承4)年4月27日に高倉宮以仁王から平家追討の令旨を受け取った頼朝は、開く前に守山八幡宮を遙拜したといいます。

また吾妻鏡によれば、1195(建久6)年12月16日のころに、願成就院に毎晩のように石が飛んできて堂の扉を破ったり、天井を人が歩くような物音がしたと書かれています。

この時頼朝は「鎮守を崇拝すれば怪異はなくなる」として鎮めの神事を命じている。急な石段の上には本殿が鎮座し、下の舞殿では毎年10月の例祭に三番叟が奉納されます。

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山木遺跡(弥生時代の遺跡)

今から約1800年前の水田稲作遺跡として知られる山木遺跡は、登呂遺跡、唐古・鍵遺跡と並んでわが国を代表する弥生時代の遺跡です。

特に水田稲作に使われた大量の木製農機具の出土が特徴的であり、田下駄・田舟などのほか、高床倉庫の梯子や柱に付けた状態で発見された「ネズミ返し」など、山木遺跡での出土状態から初めてその用途が明らかになったものもある。

遺物のうち239点が国の重要有形民俗文化財に指定されており、郷土史料館で見ることができます。

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歴史民族資料館(蛭ヶ島内)

県指定文化財。蛭ケ小島の片隅にある旧上野家住宅は、北伊豆地方の典型的庶民農家住宅の面影を伝える貴重な建築です。

この建物は茅葺き平屋建てで、西向きの入り口から入ると、いわゆる「左土間、右三間作り」になっている。建物の約40%を台所兼作業場としての土間が占 め、各室は「いろり」のある「ひろま」と「ざしき」、「なんど」が配されている。1978(昭和53)年に現在地に移築されたもので、内部には民具・農機 具などの民俗資料が展示されています。

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